第四部 自由という災厄
第十四章 偉大なる犯罪革命 - 一九九四年三月〜四月 -
<I>「首領」が撃たれた夜
(p.696−p.703)

レフ・ヤシン記念スポーツマン保護基金の総裁、「スポーツマン党」党首であるオタリ・クワンタリシビリは、94年4月5日、何者かによって射殺されました。

実は、オタリはモスクワにおける表の公権力と闇社会の権力とをつなぐ重要なフィクサーで、第四章で紹介した西側からの支援物資の横流しにも関与する人物でした。

1993年のロシアでは1年間に約2万9千人が殺され、2万人が行方不明、凶悪犯罪の件数は22万5千件に登ります。銃犯罪大国のアメリカで同じ93年に発生した殺人事件の件数は2万4千5百ですので当時のロシアはアメリカよりも凶悪事件が多発していました。

このように犯罪件数がうなぎのぼりに発生し、カオスと化している当時のロシアでしたが、本来、ロシアの闇社会では古くから強固なヒエラルキーと厳しい掟が存在しており、「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」と呼ばれていましたがソ連崩壊と同時に、スターリン時代でさえも崩すことができなかった闇社会の秩序も大きく揺らいでおり、闇社会で「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」に次ぐ「アフタリテッド」(権威あるもの)の地位についていたオタリの射殺事件はその象徴でもあったのです。

このロシア闇社会「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」について概要を紹介します。

・「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」とは「掟の下の盗賊」という意味で、ロシアの犯罪社会の支配エリートの称号で、ロシアの場合、「盗賊」「泥棒」の権威が最も高い。しかし、掟に従わない盗賊や泥棒は無法者として犯罪社会でも軽蔑される。

・「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」は、収容所や刑務所における牢名主でもあり、収容所内では絶対的権力を持つほか、獄中にありながらも塀の外の世界に権力を行使し、命令を下すことができる。そして犯罪世界の重要案件は全て、全国の「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」会議で決定される。

・「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」になるには、先輩の「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」たちの推薦と会議での承認が必要だが、一度でも軍隊に入ったもの(兵役に就く=国家に忠誠を誓った)には資格はない。一度でも兵役についたものはどんなに闇社会で実績を挙げても「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」の下の地位である「アフタリテッド」(権威あるもの)止まりとなる。

・「ヴォル・ヴ・ザコーニェ」は、国家に絶対に従わないほか、私有財産を所有してはならない、結婚してはならない、定住してはならない、決して労働してはならない、自ら手を下して人を殺してはいけない、地下金庫を管理し、服役中の仲間の面倒を見なくてはならないなど厳しい義務が課せられる。

 

オタリの葬儀には、モスクワの犯罪世界の権威の大半が顔を揃えて参列していたそうですが、その顔ぶれに混じって、生前付き合いの深かったルツコイ前副大統領の代理人(元顧問 アンドレイ・シジェリニコフ)も参列していました。一方、モスクワ市長のユーリー・ルシコフの関係者は誰も来なかったというのが異例でした。

闇社会と表社会とのつながりの深さを感じさせる出来事でしたが、闇社会でも厳しい「戒律」が存在して独特の秩序が保たれているものの混乱期には闇社会でさえも、表社会と同様に秩序が覆されてしまうという実例でした。

日本でも戦後直後に「第三国人」による暴動や乗っ取りが多発したことが知られておりますが、上記に近い出来事が財政破綻後の日本でも発生するのかもしれません。

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