第五部 全ては許される
第十七章 エリツィンが「雷帝」と呼ばれる日 - 一九九四年十二月〜九五年二月 -
◆破綻した再属領化のための秘密工作
(p.810−p.819)

冷戦崩壊後、世界は旧ユーゴをはじめ民族紛争が各地で相次いで発生したため、民族自決の原則に一定の制限を設ける必要が有るという議論が出てきても不思議ではありませんが、著者はロシアのチェチェン侵攻は以下3つの理由から決して容認できないと断じています。

1、ドゥダーエフ政権の正統性。曲がりなりにもドゥダーエフ大統領はチェチェン共和国国民が選挙で選んだ大統領である。

2、チェチェン再属領化という目的のためにロシア側がとった方法は卑劣な非合法手段ばかりで、民主的、合法的な手続きを踏んでいない。

3、チェチェン共和国の土地は、チェチェン民族の「固有の領土」であり、19世紀に帝政ロシアに武力で併合されて以来、チェチェン人が独立の意思を放棄し、ロシアとの同化を進んで求めたことは一度もないという歴史的事実である。

著者が91年にチェチェンに取材した時点で、ドゥダーエフ大統領はチェチェン国民から圧倒的な人気を得ていたのですが、エリツィン大統領は、政敵ハズブラートフが署名した「チェチェンで行われた選挙は有権者の15%しか投票しておらず違法であり、無効」というロシア人民代議員大会決議を論拠に、ドゥダーエフを交渉当事者として一切みとめませんでした。

その陰でエリツィン大統領は、力ずくでチェチェン独立を圧殺するために様々な工作を行いました。

91年に内務省オモン部隊を2000名を輸送機で送り込んだものの、軍基地を20万人のチェチェン住民が取り囲んだために撤退を余儀なくされました。

それ以来、エリツィン大統領は、旧KGBの流れをくむ連邦防諜局が主体でドゥダーエフに対抗するため、反対派であったアフトルハーノフを擁立し、彼に「臨時政権」を打ち立てさせて最新鋭の戦車、装甲車両、資金を渡し、ドゥダーエフを打倒する軍事作戦をとらせましたが、これもことごとく失敗に終わりました。

この軍事作戦では「チェチェン内部の政争には無関係」という建前でしたが、連邦防諜局の工作員やロシア軍将兵が捕虜の中におり、しかもチェチェン共和国の政争にロシアが軍事介入していたことをあっさりと白状するなど、工作のレベルは稚拙でした。

その後、本格的にロシア軍が介入することになったのですが、チェチェン側は自分の故郷を防衛するために命がけであったのに対し、ロシア軍は、現地司令官が無意味で無謀なこの作戦に対して相次いで批判したり、軍人たちは地元住民に「チェチェンには行きたくない」と口をこぼし、戦車の燃料タンクに穴を開けたり、車両のタイヤを切り裂くようお願いするなど大変戦意が低かったのでした。

混乱期では、政治家は自身の威信をみせつけるために軍事展開を行おうとしますが、肝心要の軍の将兵の士気は低く、威信をみせつけるための作戦は得てして無謀なものであるということが伺えました。

日本でも集団的自衛権をめぐり国会の内外で論争となっておりますが、肝心の自衛隊員の士気や装備などはどうなのでしょうか?

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