第五部 全ては許される
第十七章 エリツィンが「雷帝」と呼ばれる日 - 一九九四年十二月〜九五年二月 -
(p.801−p.810)

この本で最後の章となるこの章では、エリツィン大統領の対チェチェン政策の不当性と、権力闘争での地位確保に血道をあげている様子についての内容が記載されています。今回はチェチェンの状況についてご紹介していきます。あと少しでこの本のご紹介が終わりますので今しばらくご辛抱のほどお願いします。

第六章で紹介したチェチェン自治共和国との紛争は、91年から93年にかけては道路通行制限をはじめ主に経済的な圧力で行っていました。この結果、チェチェン内では物資を輸送するトラックへの強盗が頻発、武器と麻薬の密売、そしてロシア共和国内の高官と共謀した紙幣の偽造や手形詐欺が横行することになりました。

93年冬に最高会議を武力で制圧したエリツィン政権は、敵対する他の政治勢力がロシア共和国内からいなくなったため、これを機にチェチェン共和国を武力制圧へと舵を切り始めました。

チェチェン共和国のドゥダーエフ大統領はこういう状況下にあってもあくまでエリツィン大統領とのトップ会談を通じて、チェチェン共和国、そしてドゥダーエフ大統領がこの地で選挙で選ばれたという事実を認知してもらうべくロシア共和国と交渉を図りましたがエリツィン政権は拒絶しました。

ドゥダーエフを追い落とすべくチェチェン内で反ドゥダーエフ大統領派の首領、アフトルハーノフを首班とした「暫定評議会」を設立、それに呼応してロシア軍が集結、94年12月11日にはドゥダーエフ大統領を抹殺すべくチェチェン共和国の首都グローズヌイへ軍事侵攻をかけましたが、ドゥダーエフ大統領は脱出に成功し、このロシア侵攻によってチェチェン共和国の反ロシア感情が高まり対立が激化し、泥沼化し始めることになりました。

この戦闘を指揮した総司令官は前章で紹介した汚職まみれのグラチョフ国防相で、エリツィン大統領は軍事行動自体は正当化しましたが軍事行動のもたつきはロシア軍の責任であると演説で発言し、失敗の全責任をグラチョフ国防相に押し付けることに成功し、さらに、エリツィン大統領は、元々チェチェン侵攻作戦に反対していたレベジ、グロモフといった有能な将軍たちを次々と排除しました。

一方、この当時の西欧諸国は、旧ユーゴで各共和国が内戦激化した教訓から、民族自決主義の原則が無制限に拡大すると少数民族の独立が広がり、自分の足元にも内戦が発生して地球規模の「アウトオブコントロール」を招くことを警戒し、チェチェン独立についてはあまり支持しない雰囲気がありました。

経済再建、民生の安定、社会の健全化が全くなされず、外国指導者との会見を二日酔いですっぽかすなどアルコール中毒の疑いがあるエリツィン大統領は、国内外から指導者としての統治能力に疑問を持たれていたのですが、国際社会の情勢変化と、このチェチェンへの軍事侵攻作戦の失敗を通じて逆に政敵排除とエリツィン自身の権力の強化に成功してしまったのです。

民主主義の守護者として颯爽と現れ、理想とされたエリツィンの、権力闘争に明け暮れたなれの果てを見た思いがしました。

Follow me!