第五部 全ては許される
第十七章 エリツィンが「雷帝」と呼ばれる日 - 一九九四年十二月〜九五年二月 -
◆圧殺されたチェチェン民族史
(p.820−p.830)

前回は著者がエリツィン大統領によるチェチェン侵攻作戦は認めない、という著者の理由を紹介しましたが、今回はその3つ目のチェチェンの歴史について、著者が実際にチェチェン人の力を借りて調査した史実を紹介します。

チェチェンの歴史については、帝政ロシアによる併合以来、現代までに至るロシア支配に対して一貫して抵抗したきた歴史はロシア史、ソ連史の教科書には記載されてはおりません。

 

チェチェン人は、古代グルジアの年代記によると紀元前4世紀から存在が確認されていました。カフカス地方には8世紀から12世紀にかけて平野部にアラン王国、山岳部にサヴィル王国が形成され、チェチェン人はこの両国に服属していました。

13世紀にはモンゴル・タタールにより征服、その後、17世紀にはオスマントルコ、イラン、ロシア帝国によってカフカス地方は激しい角逐の舞台となりました。

18世紀に入るとロシア帝国がカフカス地方に軍事要塞を築き上げ、本格的にカフカス征服に乗り出しましたが、チェチェン人は自身の政治的独立を認めようとしないロシア帝国に対して抵抗運動を開始しました。

1817年にロシア帝国のエルモロフ将軍がカフカス総督に就任し、ロシア皇帝に対して「半年もあれば全てカタがつきます。新しい地域の経済発展も大した出費がいりません」と大見得を切って軍事制圧作戦を開始しましたが、チェチェン人の抵抗は激しく、戦争は泥沼化し、1864年まで戦争が続きました。

カフカス戦争終結後、ロシア帝国は「ロシアの影響力を強める」という目的でチェチェン人を平野部から追放し代わりにコサックを配置する植民地化政策を実施しましたがチェチェン人はこれに反発、1917年のロシア革命まで山岳部で抵抗を続けました。

ロシア革命成立後、北カフカス諸民族は「山岳共和国」の樹立を宣言してロシアからの独立を図りましたが、ボリシェヴィキ、コサック、ロシア白軍からの攻撃を受け、1919年5月に崩壊してしまいました。

1920年以降は赤軍を動員して制圧し、秘密警察と北カフカス軍管区司令部は知識人と聖職者たちの根絶作戦を開始、1929年にはチェチェンでも農業集団化を推進して土地と財産を暴力的に没収しました。

これに対しチェチェン人も抵抗を行い、イスタムロフを指導者として暴動を行いました。手こずったソ連政府は武装解除を条件に住民自治を尊重するという協定を結びましたが、チェチェン人が武装解除したとたんに協定を保護、イスタムロフは暗殺されてしまいました。

30年代から40年代にかけてはスターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れてチェチェン人は1万人以上が逮捕されました。それに抵抗するためにチェチェンに暫定民族政府が発足しましたが徹底的に弾圧、空爆をおこなった上、1944年2月にはチェチェン、イングーシ人を「裏切り者民族」とみなしてカザフ共和国へ強制移住を強行しました。

抵抗運動はほぼ一掃されたかにみえましたが、88年にペレストロイカが本格化すると民族運動が復活し、人民戦線が形成され、翌89年には政治団体が多数設立、1990年にチェチェン人民代議員大会が開催され、チェチェン民族会議実行委員会が設立、普通選挙によってドゥダーエフが大統領として選出されたという歴史でした。

著書記載時点でチェチェン独立運動の弾圧に関して指揮を執っているのはエリツィン大統領ですが、大統領の支持率は10%と低い一方で報道の検閲も復活、軍隊の指揮権も完全に手中に収めるなど大統領の権力は強まるばかりで、権力集中度合いの強さはさながらロシア皇帝の「イヴァン雷帝」である、と批判していました。

そして、ジリノフスキーが「南への最後の突進」で唱えた各種政策を皮肉にも次々とエリツィンが実行していたのでした。

Follow me!