第四部 自由という災厄
第十三章 「文明の衝突」の虚実 - 一九九四年二月〜四月 -
<II>咆哮する欧州極右の群像
◆二十世紀の「忘れられたジェノサイド」
(p.672−p.679)

ドイツ国内に滞在しているトルコ人が抱えている問題について、前回はご紹介しましたが、実はトルコには歴史的に抱えたもう一つの大きな火種「アルメニア問題」があります。今回はこの概要をご紹介します。

アルメニアはキリスト教を初めて国教として受け入れたキリスト教圏であり、地政学的な要衝でもあったため有史以来大帝国間の勢力争いに巻き込まれました。18世紀以降はロシア、トルコ、イランとの勢力争いに翻弄され、アルメニアがオスマン帝国から独立を図ろうとしたとき、オスマン帝国は1895年と1915年の二度にわたる大弾圧を実施、中でも第一次大戦の最中に行われた1915年の大弾圧では150万人のアルメニア人が虐殺されたのでした。

虐殺の流れは
1)アルメニア人の非武装化と、政治指導者、知識人の大量逮捕、追放することで民族共同体を骨抜きにする
2)男性アルメニア人に対し政府建物に出頭するよう布告を出す
3)布告に従って出頭したアルメニア人を縄でくくり町外へ行進させ、その後、軍によって大量虐殺を行う
4)女性、子供はイスラム教へ改宗するか、従わない場合は男性と同様に虐殺する

 

このやり口は政府による組織的、計画的で残酷でしたが、実施されたのが第一次大戦中であったこと、戦後、ロシアで共産革命が発生してトルコがその防波堤とならざるを得なかったため、欧米先進国では長らく取り上げられず、冷戦末期の1987年6月になって初めて欧州議会がトルコに対して非難決議を出したのでした。

ソ連崩壊に伴い、ソ連ートルコの国境はアルメニアートルコの国境となり、ジリノフスキーは「南への最後の突進」の中でこのアルメニア人大虐殺問題を取り上げ、ロシアートルコ間の緊張を高める結果となったのでした。

このアルメニア問題は、現在(取材当時、1994年)のトルコにおいて、PKK(クルド労働者党)の中にアルメニア人テロリストが多数混じっていたことが調査の結果判明しました。

 

このように、ヨーロッパでの極右台頭に関しては大虐殺など歴史的な事実を口実にしていることがわかりました。
日本においても、こういう「歴史的事実」を主張して極右勢力がさらに台頭してくるのではないかと感じています。

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