第四部 自由という災厄
第十三章 「文明の衝突」の虚実 - 一九九四年二月〜四月 -
<I>ヒトラーとジリノフスキー
◆世界の再分割化構想と「文明の衝突」論の共振
(p.600−p.608)
1994年2月は、旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国内でセルビア人勢力と、クロアチア人・ムスリム人勢力とが対立しており、NATOがセルビア人勢力に対して空爆を開始し始めました。
当時、ハンチントンによる「文明の衝突」という論文が脚光を浴びていました。その内容は、イデオロギー対決は確かに終わったが、今後は、宗教、言語、伝統文化、歴史、生活習慣などを同じくする7ないしは8の文明ブロック(西欧、東方正教会、イスラム、儒教、日本、南米、ヒンズー、アフリカ)に世界は分割され、その文明間で対立が深まるというものでした。
ここで、93年12月のロシア選挙でジリノフスキーのロシア自民党が「非西欧」の旗印を掲げて勝利したこと、ジリノフスキーは、NATOのセルビア人に対する空爆に対しては東方正教会文明圏に属するセルビア人への攻撃は許さないとわめき立てている上に、一般のロシア人、大半のロシア議会の議員もセルビア人への空爆に対してはジリノフスキーに同調していたのです。
ソ連崩壊と同時に、ロシア人たちは「千年の歴史を持つ東方正教会の国・ロシア」というアイデンティティーに急速に目覚め、エリツィン改革は実は、欧米の言いなりによる「西欧化」ではないかという疑念が持ち上がってきました。
したがってジリノフスキー現象とはジリノフスキー自身の才覚だけで巻き起こしたのではなく、ロシア社会に潜在している反西欧的、スラブ愛国主義的なエートスが噴出したもので、西欧化へのプロセスが強まれば強まるほどこのエートスは反発力として力を得たと考えられます。実際にエリツィン大統領は、ジリノフスキーの台頭と同時に急進改革路線を次々と撤廃、産軍複合体の強化をはじめ、ジリノフスキーの選挙公約を採用し始めたのです。
この章では、ジリノフスキー台頭の要因を「文明の衝突」の観点から分析しています。
日本でも田母神氏が東京都知事選挙で60万票の得票を集めたことをはじめ、保守派が台頭し始めてきています。混乱期にはこういう保守派が台頭するように思われますのでその流れを知る上で大切であると感じています。
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