第四部 自由という災厄
第十二章 ジリノフスキー現象を読み解く - 一九九三年十二月 -
(p.528−p.533)

ジリノフスキー現象についてご紹介する前に、93年12月までの政治状況の概要の説明を致します。

93年4月25日、大統領と議会の政治対立に決着をつけるために国民投票がロシア全土で実施された。投票は大統領の信任と改革路線の信任、および大統領選挙と人民代議員選挙の繰上げ実施の是非についてそれぞれYES/NOで問う形でした。

この結果は、
大統領信任 YES 58.7%
改革路線 YES 52%
選挙繰上げ実施 YESが過半数

というもので、国民にとっては反発の大きい改革路線よりも、定数の1/3は共産党の特定候補が選出されるシステムになっていたソビエト時代に選ばれた議員たちが、いまなおロシア議会に居座り続けていることに対する強い不満と、完全な民主普通選挙で彼らを一掃したいという声が強かったことが伺えました。

この結果をうけ、エリツィンは大統領権力を格段に強化すべく、二院制議会の開設と、議会解散権、閣僚任命権を大統領が独占する新憲法の設立を図り、強行しようとしますが、議会側はこれに強く反発し、対立が激化していきました。

その過程でルツコイ副大統領率いる反大統領側が、大統領側の大規模汚職事件を暴露しはじめ、大統領側が、窮地に立たされました。

エリツィン大統領側も暴露し返すと同時に大統領令によってルツコイ副大統領を解任し、9月21日には人民代議員大会と最高会議の解散を命じるとともに、12月11、12日に新議会創設のための選挙を実施する大統領令を発令しました。

9月22日に議会側はこれに反発、緊急最高会議を開いてエリツィン大統領を解任、ルツコイ大統領代行就任を決定し、武装して最高会議ビルに立てこもりました。一方、エリツィン大統領は、西側各国からの支持を背景に武装解除し、立てこもりをやめるよう説得を試みました。

しかし、10月3日に反大統領派の武装市民がテレビ局占拠を試みようとすると、エリツィン大統領は反撃を決断、10月4日に軍隊を出動させて鎮圧に成功、反大統領派は逮捕、投獄されました。

その後、12月12日に新憲法の国民投票、新議会の選挙を実施したところ、新憲法は賛成多数で採択されて大統領に強大な権限が与えられるようになったものの、新議会選挙では、下院の定数450のうち比例代表区でジリノフスキー氏率いるロシア自由民主党が第1党となり、与党「ロシアの選択」を含めた改革派は過半数割れとなってしまったのでした。

 

旧秩序が崩壊した時、国民が求めているのは、経済の回復よりも強い権力と、旧態依然としたシステムに属している人の排除を優先するということがソ連崩壊で明らかとなりました。

かつての日本も太平洋戦争で敗戦した時もGHQによる強大な権力、それに伴う公職追放令が出されてから復興作業が始まりました。今回の日本も財政破綻した後はこのような混乱と旧システムの排除が行われるのではないか(自発的/外国からの強制的かはわかりませんが)と考えられます。

 

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