第三部 権力のはらわた
第十一章 不和の林檎は投げられた - 一九九二年十二月 -
◆ボルトラーニン情報省が語る反対派との闘争の「内幕」
(p.494−p.506)
ペレストロイカの諸政策の中で、最も成功したのはマスメディアを用いた「グラスノスチ」(情報公開)でした。グラスノスチはエリツィン政権下でも引き継がれ、ボルトラーニン氏は、世論を左右するマスメディアを束ねる新聞情報相という重要なポストにある人物でした。その彼は保守派の攻撃を受けて辞任することになってしまいました。
辞任後のボルトラーニン氏に著者は取材を行いました。その概要をご紹介します。
・保守派のハズブラートフ最高会議議長とは対立しており、彼は、最高会議警護隊として5,000人の私的軍隊を組織している。その武装組織がエリツィン大統領の預かり知らぬところで銀行、検察庁、外務省、放送局など最重要施設の警備を勝手に始めた。これはクーデターの基礎になりうるもので大変危険であったため92年9月にエリツィン大統領に報告したところ、エリツィン大統領はこの事実を知らず、保安大臣、内務大臣がエリツィン大統領に報告していなかったことがわかった。
・保守派からの圧力をかわすため(ボルトラーニンを辞任させればガイダルに対しての圧力は取りやめるという裏取引)に、私は辞任に応じたが、ハズブラートフ率いる保守派はその約束を反故にし、ガイダル氏への圧力は引き続きかけ続けられた。
・ハズブラートフ氏はチェチェン人で、彼はチェチェン自治共和国から選出された議員であり、チェチェンが独立を目指している以上、彼に議員の資格があるかは疑わしい上、最高会議議長という高いポストについているのはおかしい。チェチェンマフィアとの密接なつながりもあると言われており、地位とマフィアとのつながりを利用して代議員たちを買収して支持を高め…といった具合に、今や反動勢力のゴッド・ファーザーとなっている。
・グラスノスチは80年代後半からステップバイステップで進んでいった。新聞情報省という組織を作ったのは保守派からの圧力をかわすためであった。私が辞任したあとは、この新聞情報省の規模と権限を大きく縮小し、大統領付属機関として「ロシア連邦情報センター」を創設し、ここに今までに情報省の機能とスタッフを全て移し、放送局、新聞社、通信社、出版社をその傘下に入れる。そして私はそのセンター長に就任し、不当な圧力を跳ね返して育てていく。
・93年4月11日に国民投票を実施する決定を得られたことは大きな収穫であった。代議員の多くは国民投票を望んではおらず、国民投票は既得利権にしがみつく代議員たちを裁く裁判の役割を果たすことになる。保守派はそれを嫌うので近いうち(93年3月ごろ)に全面衝突するだろう。
水面下の権力闘争は、万一の時に備え相手の裏をかくような体制(新聞情報省→ロシア連邦情報センターへの移譲)を整えておくことをはじめ、大変激しいようすだったことが伺えます。そしてボルトラーニン氏はこのような生々しい権力闘争を「陣取りごっこ」の感覚で「勝った負けた」を嬉々として語っていました。
政治は大事なことですが、混乱期は体制がコロコロとかわりますので下手にのめり込むと振り回されてしまいます。そのため、自身のできること(勉強や活動、親友とのネットワークをつくる)に向けて邁進するべきであると感じた次第です。
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