第三部 権力のはらわた
第十一章 不和の林檎は投げられた - 一九九二年十二月 -
(p.482−p.486)

この章では、92年におけるキーパーソン達にたいしてのインタビューが掲載されています。それを掲載する前に、まず、ロシアにおける92年の状況をご紹介します。

92年のロシア政局は、大きく3つのポイントがあります。

◯独立国家共同体(CIS)が空中分解した
92年1月1日から移行することになったが、旧ソ連を構成していた15共和国のうちバルト3国は独立路線、グルジアは不参加、アゼルバイジャンは議会の反対によって加盟協定を批准せず、10の共和国でスタートしました。
また、CIS内では統一通貨、統一経済空間、ソ連軍の再編と合同軍の創設を謳っていました。しかし、ウクライナは経済面で独自通貨導入とルーブルの流通禁止に踏み切り、アゼルバイジャン、ウズベク、タジク、キルギス、トルクメンのイスラム系共和国はイラン、トルコなどで構成されているECO(経済協力機構)に加盟するなど経済面での統一も出来ず、軍事面でも合同軍を創設するはずがロシア共和国が単独で国軍創設に踏み切ったことを皮切りに各共和国が国軍を相次いで創設したため、ソ連軍は解体されてしまいました。

◯ショック療法に基づく市場経済への移行が開始された
ガイダル首相代行(92年1月当時の役職名)によって市場経済移行のための経済改革が行われたがその結果は、年率2000%のハイパーインフレ、工業生産の極端な落ち込み、大半の国民の窮乏化と一部の富裕化が発生しました。

◯政権内部の対立が深刻化した
経済改革の結果、急進的な改革に反対する国民の声が大きくなり、保守派や中間派が議会内で台頭、エリツィン政権内部でもルツコイ副大統領が批判の声をあげ、政権内部で対立が始まりました。
ブルブリス国務長官、ガイダル第一副首相を中心とする急進改革派、ハズブラートフ最高会議議長を中心とする保守派のほか、ロシア民主党党首のトラフキン、自由ロシアを率いるルツコイをはじめとした国営企業への支援を訴えた愛国主義的な中間派が現れました。
そして、エリツィン大統領は、国民からの高まる経済改革への不満を背景にした議会から、大統領の閣僚任命権を制限させる法案が成立されてしまったため、議会と妥協せざるを得ず、93年4月には経済改革を推進したガイダル首相から保守派のチェルノムイルジン首相へと変えざるを得なくなりました。

 

ソ連崩壊では特に一般層で直撃したのがハイパーインフレでした。それに対して政治はほとんど無策状態で対応ができていませんでした。日本も経済が崩壊するとハイパーインフレが横行する懸念があります。この対策のために今から自分でできる勉強や活動など自助努力が必要と感じています。

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