第三部 権力のはらわた
第八章 塗り替えられたレーニンの肖像 - 一九九一年九月、九三年二月 -
<II>二十世紀の「偶像の黄昏」(p.383−p.390)

 

「レーニンは実はユダヤ系の血を引いている」…ヴォルコゴーノフ上級大将は92年秋の十月革命記念日に開催された改革派の集会で、今まで秘密にされてきた数々の資料をもとに演説をしたのでした。

ヴォルコゴーノフ上級大将は、1928年生まれで42歳の若さで将軍となり、軍政治総本部次長を務めるなど軍人としてエリートコースを歩んでいました。また、歴史学と哲学の博士号を持ち、29冊の著書を書くなど文人としての側面もありました。

彼はもともと教条的なマルクスレーニン主義者であったが、1978年にスターリン評伝を執筆するために党が管理している秘密資料を閲覧する機会がありました。
この閲覧を通じて真実を知った彼は、共産主義思想とソ連体制への疑念を募らせたため、降格左遷させられましたが、91年8月のクーデター以降はエリツィン側につき、以後エリツィン大統領の軍事顧問、ソ連最高会議歴史文書委員長という要職につくことができました。

彼が閲覧した秘密文書の内容やその感想で、特に私が注目した点を以下にまとめます。

・レーニン関係の秘密文書を3,724点閲覧したが、レーニンという人物は自分の権力のことしか念頭になかった、恐ろしく酷薄な人物であると断言します。

・暴力革命と内戦によって新しく権力を獲得しようとした彼らは、富農の撲滅というスローガンの下に、武装した食料徴発隊を全国の農村に送り込み貴重な収穫を問答無用で奪い取った上、少しでも農民が抵抗するなど、彼らにとって好ましくない人物には容赦ない弾圧を加え、実に1,300万人もの犠牲者を出したのです。

・ここであまりに荒廃してしまったために国民に一部の小規模私有財産を認める「ネップ制」を導入して一応の安定を見るのですが、実はレーニンとしてはこのネップ制は一時的にやむなく導入するものであり、時期を見て取りやめることを主張していたのです。

・この事実が伏せられた状態でゴルバチョフも含め「レーニンの道へ戻ろう」と誰も彼もが語ってきたことは悲劇であると言わざるを得ません。

・レーニンに関してはこのような事実があるにもかかわらず数十年にも渡って偶像化され、最近(1992年時点)の世論調査で今尚60%程度がレーニンを信じているという結果がでており、支持者たちから脅迫を受けつづけています。脅迫する人たちは真実をしらないため、私は最後までレーニンの真実を発表するつもりです。

 

体制にとって「不都合な真実」を知り、それを公表しようとする人に対してはあらゆる圧力がかけられることが浮き彫りとなりました。日本でも、巨額の財政赤字や福一の一件をはじめ観光地近くで発生した火山噴火に関しても「風評被害」であるということで噴火の程度を低めに報道することなどそこかしこにみられます。

それでも勇敢に行動して生き残った人(ヴォルコゴーノフの場合は真実の公表)は、体制が変わり次の時代に移る際に要職につける可能性があります。

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