第二部 青ざめた異族
第七章 シュワルナゼかく語りき - 一九九二年一月 -
◆ゴルバチョフがその気になればクーデターは予防できた
(p.343−p.353)

1992年1月。保守派が起こしたクーデターは、結局のところ保守派が守りたかったものを全て失う結果となった一方、勝利したはずの民主派は、価格自由化をはじめ市場経済への移行に踏み切ったものの混迷の最中にあり、カフカス方面の地域紛争や、ウクライナのクリミア半島をめぐるロシアーとウクライナでの領有権の争いなど紛争事が絶えない状況下にありました。

この状況下でシュワルナゼ氏にインタビューを著者は行いました。

シュワルナゼ氏の経歴は、ペレストロイカを担ったソ連外相として東西冷戦に終止符を打ち、リベラルで偉大な外相というイメージを私自身も持っていましたが、実は彼はもともと治安機関の出身で、1972年にグルジア共和国の党第一書記に就任し、その時の彼は中央統制を強化し、ロシア語推進政策をとり、グルジア民族主義を弾圧に邁進していました。そして1978年にグルジア語を公用語と規定しないグルジア共和国新憲法案を作成しようとしたら国民の激しい反発に遭い、撤回したという過去がありました。

ゴルバチョフによって85年に政治局員に抜擢、外相を務めて活躍していましたが、90年にゴルバチョフ政権の右傾化に抗議し、「独裁が近づいている」と言って辞任していました。

まず、旧ソ連時代のペレストロイカの業績についての回答は要約すると以下のようになります。

ペレストロイカによって、元のソ連は失われてしまったが、行動の自由や言論の自由など民主的な社会の実現に向けて前進したし、ソ連のアフガニスタンからの撤退で軍縮も可能になり、外交関係も改善が図られたのは大きな成果である

しかし、大きな経済格差が発生して国民の生活水準が大きく低下したことや民族対立による紛争など社会的緊張が高まってしまったことをはじめ、失敗も数多くある。

もっと勇敢に決断をしていれば、いま(1992年)発生している混乱は防げたのではないか。市場経済への移行についても、保守派の言い分に妥協した政策にせず、改革派経済学者のシャターリンが作成した「500日移行計画」を当初通り90年8月に採択、遂行していれば、いまのような経済的危機は避けられたのではないか。

また、民族問題にしても、新連邦条約をクーデターが発生した91年8月に準備締結する予定であったが、これは完全に遅すぎて、3年前の1988年までには提案できていたら何の問題もなく進んだはずであった。

この本来行うべき政策が遅れてしまったのは改革の必要性は認めるが、社会主義の根幹に手をつけず自らに痛みをもたらすのを嫌い、小手先の改革で済ませられればと、多くの国民が考えており、実施しようとした時には全て遅かったのだと後悔していました。

そして、シュワルナゼは、ゴルバチョフはクーデター計画を知っていたのではないかと疑念を持っていました。シュワルナゼは事前に保守派がクーデターを起こす計画があると度々警告し、保守派自体も党大会や共産党中央委員会総会でもクーデターをほのめかす発言をしていたがことごとく無視されてしまった。おそらくゴルバチョフは、周囲の保守派を一掃する目的であえてクーデター計画を看過したのではないか。

 

改革に際する自らの痛みを嫌うと、最後にツケを払うのは国民であるというのはいまの日本にも相通じるものがあります。かつてのソ連崩壊時に起きた現象をいまのうちに勉強しておくことが大事ではないでしょうか。

 

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