第四部 自由という災厄
第十五章 怪物を生んだ権力のラビリンス - 一九九四年四月 -
◆二十世紀末の「死せる魂」
(p.743−p.751)

ソ連共産党がジリノフスキーの自民党設立に深く関わっていた様子を今回はご紹介します。

ロシア大統領選に際して、ソ連共産党は「支持すべき会派、敵対的な会派、協力可能な会派」を分類し、そのうち、支持すべき4会派の中に、1番目はカガルリツキー党首の社会党と、2番目にジリノフスキー党首の自民党が含まれていました。

旧ソ連末期の90年当時、新たに政党を設立登録するには、「社会団体組織関連法」第6条により党員数5000人以上が必要でした。カガルリツキー党首の社会党は、たったの400人しか集めることができず政党設立に失敗しましたが、ジリノフスキーの自民党は5000人を超える党員を集め、共産党以外で初の政党登録となったのでした。

ところがその党員名簿は、名前の重複登録(125人の党員が重複して269人分の人数を稼いでいる)、法律で認められていない未成年者が14人も登録されたことをはじめ、約4割の2080人の名簿には生年月日が記載されておらず、最も酷いのは反ロシアの急進的民族組織でカフカス地方に設立された「アブハジア人民戦線」のメンバーがそっくりそのまま自民党のメンバーに入っていたなどものすごい杜撰なもので、法律に合致していた党員数はわずか530人しかいなかったのです。

政党設立に関する審査はソ連法務省で執り行っていました。実務担当者であった政党登録担当部局のジバンコフ部長は、91年2月〜3月にかけてジリノフスキーが持参した自民党の名簿リストがあまりにも杜撰であったため、法律に基づき4月3日に政党設立を認めず却下しました。ところが4月8日にジバンコフ部長は突然人事異動で飛ばされ、上司であるヴィシンスキーソ連法務省次官によってソ連自由民主党の登録が決議されたのでした。

さらには、政党設立されるかどうかわからない時期の3月12日に自民党第一回党大会プログラムが印刷されましたが、その印刷所は「政治出版所」、つまりソ連共産党付属の出版印刷所であり、共産党がダミー政党であるジリノフスキーの自民党設立にとにかく躍起になっていた様子が伺い知れました。

 

自分がもうまもなくでダメになるということを知った上で、次の一手をなりふり構わず打とうとする国家権力の執念深さと恐ろしさに驚いた次第です。自然災害など最悪の事態を想定しその時に有効な一手を打てるよう、避難訓練などをやっておく必要があると改めて感じました。

Follow me!