第6章 ドイツとは何か?
「財政規律の重視」はドイツの病理
(p163-166)

 「財政のゴールデン・ルール」と呼ばれている概念は、人間活動のうちの一つの要素をいわば「歴史の外/問題の外」に置いてしまおうとするもので、本質的に病的だと言わなければなりません。それなのに、フランスの指導者たちはこの病理を助長し、励まし、ドイツの権威主義的文化をそれがもともと持っている危険な傾斜の方へと後押ししたのです。
 
 -そういうビジョンは少し古くないですか?国民性をそうやってタイプに分ける見方は、現代では相当に覆されてしまっているのでは?

 あのね、よく聞いてください。私の説をよく理解してもらうために、唐突と思われるかもしれない例を引きます。
 われわれは今、フランスの道路を走行しているとします。憲兵たちが道路脇に隠れて、スピード違反を摘発しようとしている。すると大抵、フランス人の軽犯罪者コミュニティともいうべきものが自然発生し、対向車線でヘッドライトを点滅させ、気をつけろよと教えてくれますね。
 今度は、ドイツにいると仮定しましょう。誰かが違法駐車をしている。と、近所の人が警察を呼びますよ。フランス人にとっては、これこそショッキングな話でしょう。
 ある国や地域で経済が具体的にどう動くかというところに注目すると、権威との基本的関係を明らかにするこうした社会的行動の標準型と関係があるのだとわかります。ですから、良し悪しの判断は抜きにして、その代わりここできっぱりと、フランスとドイツは一つではなく二つであって、異なる世界なのだということを認めましょう。

 「財政のゴールデン・ルール」は、この二つの世界のうちの一つにおいてはひとつの意味を、病的な意味ではあるけれども、とにかく意味を持っているのに対し、もう一つの世界ではどんな意味も持ちません。
 もしそうでないというならば、日頃ドイツを模範にせよと言っているフランスの政治家たちは勇気を振り絞り、我々に対して、近所の人が違法駐車をしたときにはその隣人のことを警察に告げ口せよと求めなければ筋が通りません。第一、未来のヨーロッパ条約に書き込まれる「財政のゴールデン・ルール」は、各国に完全に取り入れられる規律だけでなく、隣国の予算を監視することまでも前提にしているのですよ。

 -あなたの話を聴いていると、今にもビスマルクの名前が出てきそうです。要するに、ドイツ嫌いじゃないのですか?

 いや、違う。ここまでお話ししてきたのは、アメリカの伝統を受け継いで文化というファクターに注目する人類学の一端です。
 ビスマルクに関していえば、私はここで告白しておかなくちゃなりません。
 あれは実に見上げた人物だと思っているのです。いったんドイツ統一を成し遂げたとき、彼はそこで止まりましたね。限定的な目標を達成して、そこで止まる器量のあった稀有の征服者です。ナポレオンやヴィルヘルム二世とは大違いです。

 -それでも、ドイツ人たちはすでにドイツ再統一のために高い代償を払ったと感じているわけで、その彼らが、この上ギリシャやイタリアの赤字までまかないたくないと思うのは無理ないですよ。

 ドイツの一般人を全体として捉えれば、どんなメカニズムが働いて南欧諸国が大きな貿易赤字を抱えるようになり、その結果として歳出超過予算状態に陥ったか彼らが知らなくても、それはまったく責められることではありません。まして、ドイツの輸出の好調さの果実が彼らにはあまり回って行っていないのですから。
 

 
 ドイツとフランスの価値観が違うということは本書で何度も述べられておりましたが、「違法駐車をしている車があったら近所の人が警察に通報することは、フランスでは絶対にありえないことで、政治家たちが勇気を振り絞って国民に求める必要がある」というくだりには正直、大変驚きました。価値観の違いというのは、私の想像以上であると思わざるをえません。
 
 直系家族の流れを受けているドイツ国民の場合、破産状態の旧東ドイツを丸抱えして復興させつつ財政規律を守り、そしてグローバル化した世界に対抗して従前とかわらない、あるいはそれ以上の貿易黒字を稼ぎ出すために、国民の平均賃金低下という形で皺寄せがいくのは、さしずめ玉音放送の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって太平の世を開かんと欲す」と同じ感覚で受け止めているのではないかと感じています。ギリシャ問題でもみられたように、ドイツ国民は「この程度で耐えられないギリシャ国民の方がおかしい」と感じているのではないでしょうか。
 

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